終わりはいつも悲しい。

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 悲しい風景というのがある。「壊れる」「崩れる」「消える」みたいな、1から0へ向かった矢印みたいな特徴を含有する風景は、いつもそうだ。悲しい。それまでは生を続けていた物が、解体の始まり、一瞬からじわじわと消えていく。よっぽど真新しい手ぬぐいの端でほつれを始めた糸のような。木の枝に引っかかったアラジンの空飛ぶじゅうたんのような。

 「終わりの始まり」が「始まり」であるということを証明しようとする、僕の「インドゾウはゾウだろ だったら、"終わりの始まり"は"始まり"でしょ」の論。ここでは、その意気がった反抗らしい言葉は不能だ。終わりの始まりは「終わり」である。さらに、やっぱり終わりは悲しい。

 終わりゆく途中というのも同様に悲しい。「終わりの始まり」があれば、『終わりの途中』も『終わりの終わり』もある。「終わる」というのは、ある一定の期間をもってなされる。アナログだ。人間の心を打つのはいつもアナログだ。桜の花が散るのが「美しい」とか「儚い」ものと思えて、心が打たれてたまらないのは、アナログだからだ。花びらが空中をひらひらと舞う景色が、目に見えてしまうからだ。

 これは暴論にも取れるはずなんだけど、絶対にそうだ。デジタルな物が人の心を打つのは、人間の心のフィルターを通り抜けた後であり、人間臭いアナログな解釈を経た後だ。

 

 乱暴にぶっ壊されていく途中の家を見て悲しいと思った。(ここに住んでいた人は立ち退かされたのかな)とか、(最後はどんな顔でこの家から目を離したのかな)とかいう、余計な感受性が顔を出す。0か1で、一瞬のうちにパッと消えてくれるなら、こんな心配は存在することもできなかった。アナログな中途の経過を奇跡的に見られて、知ってしまった以上、悲しむ責任が出てきてしまったのだ。「終わり」に時間的幅があるせいで。飛び出た断熱材が見えてしまったせいで。風が吹いて防風ネットみたいなのが揺れたせいで。

 「儚い」というのもそうだ。語のイメージとしての色はきっと薄いグレー。淡くて、消えやすい色。きっともう少しで消えてしまいそうな、弱々しい感じ。これもアナログだ。確かに鮮明に消えてはいなく、しかし同時に「色として存在している」と断言することもできないような。0.1,0.2が首の皮一枚で続いていく。およそ禿げ上がった冬の木にしがみつく、一枚の枯れた葉っぱの色。これが心を打つのだ。0でも1でもないから。

 

 結局は他人の家であり、自分が住んでいるマンションはここに関わるはずもなく生きている訳だから、別に何でもなく特に僕が気をしおしおさせる必要も無い。でも、通勤路にこの家が立っていたのをいつも見ていた僕は、ついつい母親譲りのおせっかい心を震わせてしまう。立派な何になるでもないおせっかい心。形式だけにて優しくあろうとするアナーキズム。上の、4日前に撮った写真の家は、今日の夕方の帰路で確認した段階、とっくに消えて跡形も無くなっていた。それで良いと思った。終わり。