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「いいと思う」で逃げているのか。


 自分に関する人々や物々についてのなるべく全てを肯定しようとする僕は、友達の服装や人のファッションを見ると「いいと思う」しか言わない。美味しいからと誘ってくださった店に行くと毎度「美味い」としか言わない。どこどこに行こう、ここは楽しそうだと誘われれば、「いいね行こう」としか。
 自分の中でそれは、ありがたみからであったり最低限の礼儀からであったりするのだが、最近、それを真っ向から全否定される出来事があった。『何に対しても「いいと思う」って言うの、良くないよ』と友人。

 別に、嘘や口から出まかせ、建前としての「いいと思う」ではなかった僕のこれまでのあれこれ。ある友人のリーバイスの赤耳・タテ落ちは本当に格好良かったし、先輩が連れて行ってくださったラーメン屋のラーメンはもれなく美味しかった。「行こう」と言って恋人と2人で行ったドーバーストリートマーケットも、結構面白かった。
 ただ、彼が言った『何に対しても「いいと思う」って言うの、良くないよ』という言葉は、本当に的を射ていると思った。グサリと刺さった。「たしかにそうだなぁ」以外の言葉が見つからず、後の『それも三浦の良いところなのかもしれないけどね』を静かに待った。それは思ったよりも早く発されて、サウナの直後の水風呂みたいな温度差に身体が驚くような感覚だった。

 だって、たしかにそうだよ。全部に「いいね」と言っていては、悪い物が一つとして無く、かえってつまらない。たしかに。そうだ。最近のグルメリポートが全く面白くないのと同じだ。絶対『旨い!』って言うんだから。あの中で1人でも『いやこれマズイでしょ』と言う人があれば、もしかすれば面白くなるのかもしれない。
 決まり切ったオチがすでに設定されていては、『またそれかよ…』と面白みが半減してしまう。僕がいつも口にする「いいと思う」という言葉が、彼にとってはテレビの中のグルメリポートみたいだったんだろう。たしかに思い返してみればその通りだ。

 「たしかに……、でも〜〜〜だ」の譲歩の表現で、後者の「〜〜〜」を強めることができる。「でも〜〜〜だ」と続けて反論することもできる。ただ、今回に関しては、本当にその通りだと思ったし、異論反論は無い。そう思う人がいるのなら、それは正論だ。「たしかに」ではなく、「確かに」だ。


 ここまでの全てが、僕のこれまでの「いいと思う」を言い換えた形になっていることには、勿論自分でも気がついている。それに、直前の
「たしかに……、でも〜〜〜だ」の譲歩の表現で、後者の「〜〜〜」を強めることができる。ただ、今回に関しては、本当にその通りだと思ったし、異論反論は無い。そう思う人がいるのなら、それは正論だ。
 が、そもそも譲歩の表現になっていることになんか、とっくの間に気がついている。ありとあらゆる色んな草の根を一生懸命分けたところで、結局自分は自分であり、変えられないなら変えられないで、いいと思う。