「ちょうど良い人」になりたい。

 

 顔が濃い分、所作はあっさりと決めたい。鼻風邪気味な女の子と遊ぶ時には、ポケットの中にスースーする飴を入れておきたい。話が盛り上がり過ぎて疲れていそうな友達の隣では、スマートフォンを触りつつ発言のタイミングを定めていたい。で、ぴったりな瞬間に「そろそろ行こっか」と切り出したい。

 

 「顔が濃い分」はちょっと脱線し過ぎている。自分の言動のうち7割くらいに対して、相手から『ちょうどいいな』と思ってもらえるようになりたいんです。恋人との連絡はだらだらズルズルとどこまでも続いて行きがちだけど、そこでも、本当にナイスなタイミングでビシッと「ばいばーい」と言いたいよ。それに苦戦しては毎度急すぎる切り出しをしてしまうんだけど。

 ラーメンが運ばれてくれば、食い気味になり過ぎない程度のタイミングで割り箸を差し出して。友達がポケットからタバコを取り出し1本口に咥え、また右手をポケットに戻したくらいの瞬間とっさにライターを貸してあげて。友達が勧めてくれた映画を観るのは、その日の夜ないし次の日の朝から昼にかけての時間に。

 

 タイミングの話ばかりではない。飲み会の幹事の頭の中に、片隅にでも自分がいたらどれだけ幸せなことだろうか、と思う。『あいつがいればちょうどいいな』の『あいつ』になること。それほど嬉しいことはきっと無い。ドライブの助手席に誰を置くのか。夜遅く急に腹が減った時に誰を誘うのか。欲張りっぽく少し気持ち悪くはあれ、これらのうちどれかに自分を選んでいただくこと。ぴったりとフィットする「ちょうど良い人」になること。

 狙いすぎては野暮になる。ひたすらにベタベタし過ぎた恋人同士を待っているのは『距離を置く』なんていう最悪のバッドエンド。もちろん恋愛に関してだけではない。友情も、他の交流も。盲目に闇雲に「覚えてもらおう!選んでもらおう!」と近寄りまくっては、それぞれの関係の輪郭とそれぞれ相手の心を掴むことはおろか、相手にとっての自分が一体何なのか、一体どこを何を目指しているのか、すらわからなくなってしまう。つまりこれは、「ちょうど良い人」ではなく「都合の良い人」なんていう。

 

 人間関係において、「広く深く」なんて絶対無理だ。そんな器用な人間は居ない。ならば、浅くとも要所要所を突いたコミュニケーションによって、「広くそこそこ深く」でいいじゃないか、と思う。広く愛し愛され、そこそこ深い愛を注ぎ注いでもらえる人間。それこそが「ちょうど良い人」であり、僕はそうなりたい。

 文章もそうだ。「ちょうど良い文章」を書きたい。これに関しては、上で『それこそが「ちょうど良い人」であり、僕はそうなりたい。』と締めたことから、ここに書き続けるのは野暮になりそうだ。またいつか書きます。ばいばーい。