破壊衝動に寄せられて。

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 お蕎麦には日本酒を合わせたいように、こってこてのピザにはコーラを共にさせたいように、チーズケーキにはカプチーノを添わせていたい。そういうのがこの社会には割と沢山ある。ラッパーにはきっと太めのパンツ。今の主流が違うとは言え。渋いおじいさんにはティアドロップのレイバン山田孝之の隣には綾野剛が居て、ブラックコーヒーには甘ったるいケーキがあって欲しい。ペアリングというやつだ。

 世の中には思ったよりも決まりごとが少ない。特にファッションに関してはそうだ。各ファッション誌が後付けみたいに定めた柔らかい「鉄板コーデ」なんて、アルミ缶みたいにやすやすとペシャンコにできる。膨張色がなんだ。テーラードジャケットにキャップがなんだって言うんだ。

 また、口に入れる物だってそう。焼きそばにワインを合わせようが、お米にヨーグルトをぶっかけようが、別に警察がやってきて逮捕されるわけでも拘束される訳でもない。法律以外の決まりごとというのは割と弱く少なくて、仮にあったとしても、いとも容易に無視できる。「モラル」が及ぶ範囲なんて、たかが知れたようなもんだと思う。

 お蕎麦にコーラを合わせても、こってこてのピザの横にふんわり湯気の立った緑茶を置いても、いっそ今回のチーズケーキに日本酒だっていい。何でもいいのだ。言ってしまえば。

 それでもなお、チーズケーキにはカプチーノを合わせたいと思ってしまうのはなぜか。何ゆえにお蕎麦には日本酒なのか。ラッパーはどうせ太いズボンを穿いているのだろうと思ってしまうのはどうしてか。

 

 大学の「異文化コミュニケーション」の講義をしてくださった先生の言葉を思い出す。

コミュニケーションというのは、「意味付け」のことです。言葉を換えれば、「偏見」や「思い込み」とも言えるかもしれません。

  僕がこの言葉を初めて耳にした時には、椅子から飛び出して先生に「そうだ!そうだ!」と言いたい気分だった。一つの誇張も無く、本当にそうしたかった。まったくその通りだ。

 ラッパーがダボダボのズボンを穿いているのだろうと思っている状態は、どこかで見たいつかのラッパーの姿が印象に残り、「ラッパー=オーバーサイズ」の式が完成され意味付けられた結果だ。「日本酒には蕎麦」もそうだ。コンビニの雑誌か池波正太郎の本かはわからないが、何かによって強烈に印象付けられ、意味付け紐付けられたのだ。

 人は新しい何かに対峙・直面した時、それに対する一つの反応として、それぞれに対応した形のカテゴリー化を図る。ラッパーに対しては「ぶかぶかのズボンを穿いてる人たち」のラベルを貼る。服をTシャツとシャツ、ズボンにきっちり分けるためにタンスの引き出しにそれぞれの入れ場を決めるのと同じだ。

 これはこう、あれはああ。そうすることで、後に出会う新しい物に対する反応が容易になる。ズボンは上から二つ目の引き出しに入れられる。「ヤクザは怖い人」として、「ラッパーも少し怖くてぶかぶかの服を着ている人たち」として認識できる。違う人ももちろんあれど。

 こうして出来上がったカテゴリーとその中身が、「偏見」やら「思い込み」として自身に刻まれる。チーズケーキにはカプチーノがよく合うとして、強烈にインプットされる。自分の中にルールじみたものが出来上がり、次第にそれに沿った生活が組み立てられる。

 

 人生はカテゴリー化の連続だ。「選択の連続」という表現があるが、あれと同様。選択するということはつまり、これではなくあれを選ぶということ。「これ」を捨て、「あれ」を手にすること。これは、日々のカテゴライズがそうさせるのであって、「これ」が捨てられるのには、これまでの大きな意味付けの歴史が裏付けとして効果を持つのだと思う。

 枠にとらわれないこと、言い換えれば、カテゴリーにとらわれないこと。これが面白くもあり、人生を楽しくさせる一つの材料であると思う。ただ、やはり枠を壊すためにはその「枠」がしっかりと設定されていることが大切だろうなぁとも思う。無いものを壊すことなんてできやしないんだから。

 チーズケーキに日本酒を、お蕎麦にコーラを合わせて楽しめる人はきっと、チーズケーキにカプチーノ、お蕎麦に日本酒を合わせることの定番としての存在を知っているのだろう。作られた枠を壊すことで、新しい何かに気づけた人なのだろう。これも結局のところ、思い込みではあるが。

 ただ、ご飯にヨーグルトをぶっかけるのだけはやめておいた方が良さそうだ。母によれば、幼少期の僕はこれをずっとしていたらしいが、できる限りその話は遠ざけておきたい。