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何でもない一日の始まり。

 

 地下鉄の駅階段をひょうひょうと上っていた。出口に近づくにつれ、前を大胆に開けたライダースジャケットの大きすぎる隙間から、11月最終日のひどく冷たい風が腹や脇へと入り込む。フィルメランジェの上質なTシャツを一枚、中に着ていた。家を出る前に彼女が言った『それじゃ寒いでしょ』という声に愛想笑いを返して、良く晴れた真冬の外へとぬけぬけ出て行ったのが間違いだった。くしゃくしゃのポケットティッシュの袋から、1枚しか入っていなかった柔らかい紙を取り出し、湿った鼻をぶっきらぼうに拭った。もう冬なのだと思った。

 3日放っておいたヒゲが頬に所狭しと並んでいて、コンビニエンスストアのトイレの鏡には、山に長年篭っていたような顔が不健康そうな表情でこっちを見ている。これはさすがにまずいなと思いながら、寒さにかじかんだ手でジャリジャリと頬を撫でた。外気のせいでぶわっと赤くなったそれは、ところどころがさばさばと乾燥していて、心から嫌気が差した。水道から出てくる冷たい水を適当に肌へ撫で付けて、今日の夜は薬局で保湿剤みたいなのを一つ買おうと思った。もしくは、ヒアルロン酸が多く含まれているらしい何かを口にしようと思った。

 部屋に着けば、そこは誰もいなくさっぱりがらんとしていて、黄緑色の元気過ぎるカーテンが陽の光を拡散しているようで、2つの対比に自分の怠惰を責めた。洗濯物は乾燥が終わって洗濯機の中でしぼんでいる。柔軟剤の爽やかな香りのおかげで、せめて自己嫌悪まではいかなかったが、よっぽどそれに近いものを感じた。部屋が汚れている。電子レンジの上に無造作に広がった埃みたいなのを指で絡め取って、それを鼻に近づけた。柔軟剤の罪は重いと思った。灰色のそれは指の上でいびつな形の柔らかな塊になって、それでありながらも決まって良い匂いだ。柔軟剤の罪は重い。いい響き。

 部屋の小さな窓から、遠くの家の玄関で不自然に絡まる男女が見えた。スーツの男と、上下スウェットの部屋着姿の女。ネイビーのスーツに合わない可愛らしい手提げを右手に持って、彼女の唇の周りをクネクネとうごめいている。お昼休みが始まって、お弁当を取りに一度帰宅したのは明確だった。眠い目を擦りながらそれを見て、伸び切っただらしないヒゲをまたも片方の手でなぞったのち、かろうじて畳まれ衣装ケースに突っ込まれたバスタオルを手に取った。風呂に入ろうと思った。腹がぐうと鳴って、昨夜の多くの酒のせいで膨らんだその部分を手で覆う。ぱらぱらとヘソの周りに伸びた毛が、指の隙間からチラチラこっちを覗いてくる。全部剃り上げてしまおう。

 

 風呂に入る。