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ナルシズムは悪いことじゃない。

 服を作る、料理を作る、お酒を作る、家を作る、髪型を作る、文章を書く。服飾デザイナー、料理人、バーテンダー、建築家、美容師、ライター。全てに共通するのが、「何かを形にして人に提供する」ということ。誰かに対して、自分の能力を以って何か形のあるものを提供するということ。生み出す、作り出すといった、クリエイトするということ。

 「クリエイト」なんていう言葉を使えばなかなか格好良すぎるが、僕もこうしてブログを書いていて、一種のクリエイターであるとは言えると思う。恥ずかしいし全然そんなつもりや自負は無いけれど。文章を書いて、誰かに読んでいただいて、感動や共感をしていただいて。多分そういうことだと思う。

 その際にはいつも、「伝わりやすい言葉を使って書く」というのを一番大切なこととして頭に置いている。読んでくださった方々が全然理解できないようでは、ただの自己満足に終わってしまう。そんなものはスマートフォンのメモに残しておくか、Twitterの下書きにずっと保存しておけばいい。わざわざ公開してまで、人に読んでもらうようなものではない。

 

 仲の良い人とそれについて話していて、ちゃんと心の中でまとまったことがある。ふわっとした考えも、言葉にすれば何となくまとまる。それは、「自己満足と他者の理解のバランスが大切だ」ということ。言葉を変えれば、「伝わる形にとどめつつ、自分が本当に好きなものを書く」ということ。

 読者の方に理解していただけるような形を保ちながらも、自分が本当に書きたい形を全てぶっ壊してしまわないようにする。気持ち悪いとか、なんとなくきまりが悪いと思ってしまうような、自分の言葉ではない文章を書いて、「それでも読者に理解さえしてもらえればいい」とすることができる人は、多分居ないと思う。やりがいを感じられなくなって、どんどんやってられなくなると思う。

 その話を下のリンクにも書いた。どこかに自分の「こだわり」を残すことで、その仕事、僕にとっての文章(報酬は無いけど)に「自分らしさ」が出てくる。「人間味」みたいなものが出てきて、仕事そのものを楽しい事だとしてずっと認識していられる。

 

 自分が本当に好きな言葉を用いて、でも、それだけではきっと理解してもらえないだろうと考え、伝わりやすそうな言葉も時々ところどころに散りばめる。このバランス感覚が大切なのだと思った。だから、最後に【公開する】のボタンを押して、自分の文章をもう一度自ら読んだ時に、(あぁ~やっぱり良いな~)と純粋に思えるのが自然であると思う。自分の好きな言葉を使って、読者がきっと理解しやすいであろう順番に文章を並べて編集したんだから。理解が簡単な言葉を時に選んだりもして。それで公開した文章には、自分で愛を持てる。「最後には自分で愛せる文章」というのが最高だ。

 他の仕事だって同じだろう。家を作るのが仕事の建築家も、自分が設計した家が実際の形となって完成した時には、絶対(あー、格好良い)と思っているはず。料理人だってそうだ。(すげえ美味そうだな俺の料理)と心の中で思っているはずなのだ。自分が食べたいわ、くらいに思っているシェフもいるかもしれない。牧場主が自分のブタを出荷する時に、トラックに乗せられたブタたちを見て涙を流すアレは、そういう類の愛。

  文章を書くことに限定すれば、あとあと読んで(俺の文章ってやっぱ良いな~)と思えるような文章を書くべきだということ。ましてや、それでお金を頂くようなことになれば、そう思えるということは絶対必要だと思う。自分が心から愛していない文章を、人から愛してもらおうだなんて贅沢だ。

 

 何かを生み出して、それを人にあげたりしてあげたりする際には、自分が本当に納得のいった物でないといけないと思う。それが、上での「自分で愛せる文章」。それは他の人に呆れ顔で「自己満足」と言われてしまうようなものでは決してない。自己満足がネガティブに思われるのはきっと、「自己だけ満足」になってしまっているからだと思う。そうじゃない。自己以外の、相手も一緒に満足できる物を作り上げなくてはならない。

 「自己だけ満足」を生むのは、相手のことを全く考えなかった言葉遣いや編集の結果。膨れ上がるエゴを抑えきれず、目の前の読者について何も考えられなくなっている状態、その末路。ナルシズムだけに支配されてしまうことだ。そうならないようにも、自分の言葉で書き、同時に「伝わる形」になるように編集する、この2つのバランス感覚を大切にしなくてはならないと思う。ナルシズムを持ちつつも、読者のことを考えること。それらのバランス。

 

長いけど、この文章も勿論好きだ。