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結局オシャレとは何なのか。

 『三浦君はオシャレだね』と言われても、あまり嬉しくないまでに僕はひねくれている。「ありがとうございます」とは言うものの、心の中では(この人は何をもって「オシャレ」としているのか)と思ってしまう。結局いかにせよ、ふやけた笑い方でニヤニヤしてしまうのだが。きっと嬉しいんだろうな。格好付けてるだけで。

 僕もこれまでにオシャレだと思える人にはそこそこ出会ってきた。シンプルなモードのファッションがよく似合う、なで肩の彼。『髪が薄くなったら毎日違うカツラを被るよ』と自慢気に僕に話した美容師の彼。服を選ぶ基準がいちいちユニークな、座高の高い彼もそうだ。初期パンクが好きでどうしようもなくて、『シドヴィシャスよりもジョニーロットンだろ』と言って聞かないアイツもそうだし、ゆるいコミュニケーションが面白いヴィヴィアンウエストウッドを溺愛している彼女もそうだ。

 なぜ彼や彼女をオシャレだと思ったのかを、ポタポタ雨粒が落ちるサイクリングロードの休憩所みたいな所で豆パンを食べながら考えていた。大学生の夏休みはここまで暇なのかと思ったが、仕方が無い。暇なんだ。

 

 結論から言えば、僕が思う「オシャレな人」に共通するのは、服を楽しんで着ているという一点に尽きる。服を選ぶ際にも、それを身に付けて外を歩く際にも、とにかく彼らはファッションを楽しんでいる。心から楽しいと思っている。

先天的なセンスがどうとか、それまでの知識がどうとか、どれだけの数の服を所有しているのか、といった話ではないような気がする。数や持ち前の何かがどうとかの話ではない。間違いなく関係あるのだろうとは思うが、それが全部ではなくて。

 今日は何を着よう、何を身に付けて遊びに出かけよう、どの靴が自分の今日の格好に合うだろうか、と、それぞれについて云々言いながら考えている時間とそれからの時間を、きっと彼らは心から楽しんでいるのだと思う。

 服を10,000着持っていようが、全てのファッションの原理と歴史を知っていようが、天才的な色合わせのセンスを備え持っていようが、それらだけでは「オシャレ」にはなれないんじゃないかと思う。たしかに表面的なオシャレにはなれそうだ。みんな褒めてくれそうだ。ただ、それをもってしてというだけで、「オシャレだ」と言えるのだろうか。僕は違うと思う。彼らが積んできたそのような能力を差し置いて、きっとまず「楽しい」というのが一番最初に出てくるはずで。そこには知識もセンスも必要無い。楽しいから好き。これこそが正当なオシャレなのだと信じている。

 好きこそものの上手なれとはよく言ったもので、楽しんで好きでいるからこそ、どんどんポジティブな欲が出て「センス」や「歴史の知識」を付けてみたいと思う。センスは先天的なものに限ったものではない。ただひたすらに純粋な「楽しい」が、知識やセンスを鎧として強固なものになっていき、結果的にその人は「オシャレな人」になれるのだろう。何を言っているのかわからなくなってきた。

 整理すれば、服を心から楽しんで着ている人が本当にオシャレな人だということ。たくさん知っていようが、たくさん服を持っていようが、別にそんなのは大したことではないということ。持っている服が少なくても、あまり知識が無くても、服を好きでいることはできる。楽しむことはできる。そういう人をひっくるめて、僕は「オシャレ」だと表現したいと思うのだ。オシャレは表面の話ではない。オシャレは服を楽しむ態度の話だと思う。と、上半身裸で書いてみました。終わり。今日の文章はグッチャグチャですね。