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伝わるように書くことの大切さを。

 自分が思うように書きたい。自分が使いたいと思う言葉で、自分がふさわしいと思う写真を使って、改行も、文字の太さも、漢字の変換も、句読点の打ち方も、全部。全部を思うようにやりたい。

 しかし、書いて何かを公開する以上は、それを読んで下さる方の存在が大きくなってくる。昨日は450人以上の方にこのブログを読んで頂いた。その状態において、自分が思う全てを思ったままに吐き出して、その結果読者の方が全く理解できないようではいけない。そんなものはチラシの裏に書いておけばいいもので、鍵を付けたTwitterのアカウントで誰もフォローせず発しておけばいいものだ。

 自分のやりたいようにやりたいが、一方で、書いてあることを読者の人々が分かってくれるようにもしなくてはいけない。このバランスがとても難しいと思う。使いたい言葉もたくさんあるけれど、それらを使って文章を書いて、読んで下さる方々が眉をひそめるようでは良くない。今も「眉をひそめ、首を斜めに曲げてしまうようでは...」と書きたかったが、「それらを使って文章を書いて、読んで下さる方々が」の部分の比重の重さを気にして止めておいた。そういうバランスを考えるのも、文章を書くことの面白さだと思う。

 日常会話ではこうはいかない。そこには「漢字の変換」も「エンターキー」も無いからだ。友達を前に「あっちょっと待って 今の話、改行したい」と言えば、きっとそれから先はその友達とは上手くやっていけないだろう。かえって面白い人だと思われるかもしれないけど。

 だからと言って、「言葉による会話」が全く面白みの無いものであるということでは勿論ない。表情や身振り手振りを使って、本当に伝えたいことを助ける方法だってある。これは「文章」には無いものだ。声の大きさもそう。それが発展して、抑揚やリズムだってそう。文章を通じた伝え方とはまた違った面白さがあると思う。

 僕はあまり言葉による会話が上手な方ではない。「アレがこうで、ああなってこうした」というのが上手くできない。話しているうちに何か別のことが頭に浮かんできて、新しく出てきた別のことについて話したくなってしまう。「セレンディピティ」と言えば聞こえは良いが、言ってしまえば注意散漫なだけだ。

 だからこそ、こうして1人でパソコンの前に座り、アレコレと頭をひねりながら言葉を探している方が得意なのだと思う。悪く言えば「逃げ」のようなものなのかもしれないが、この方法を見つけ出しただけまだきっと良いことだ。僕は文章を書くことが本当に好きだ。それを伝わるように、理解して頂けるように文章を考えぬくことが好きだ。家でパンツ一丁でも、自分の考えを世界にぶん投げることができるから好きだ。ずっとニヤニヤしていてもいいから、好きな音楽をかけながら居られるから、他のことをしながらでも怒られないから、だから文章を書くのが好きなんだ。「伝わるように書く」のが一番大きな理由だというのが伝わらない、列挙の嵐。こういう馬鹿な人間性も文章にビシッと表れてくるから、やっぱり僕は文章が好きだ。

 

 ちゃんと伝わってるんですかね、これ。