「なんか」は最強だ。

 

好きなものを語る時の人の目は美しいと思う。美味しいコーヒーがある喫茶店について延々話す人の目や表情は、真っ直ぐこっちを見たり、下を向いてゆっくり閉じたり、恍惚な雰囲気を帯びたりした。気持ちが伝わる。(この人がCMに出ていたら、間違いなくそのコーヒーは売れるだろうな)と思った。

彼の言葉は素直で、正直だ。『美味しい』、『匂いが良い』、『なんか良い感じ』と、何もまとわず発せられていた。荒削りで、ごつごつした言葉。もしかしたらCMには向いていないかもしれない。誰も共感できないから。でも、僕にだけ真っ直ぐ伝えようとするあの気概がものすごく好きだった。

何度も『なんか好きなんだよ』と言う。その度僕は頭のなかでそれを想像した。(僕にはそういうお店があるかなぁ)とか、(どんな見た目のお店なのかなぁ)とか。結局何もわからなくて、その話は終わってしまい、彼がタバコを一本吸い終わった後、僕たちはお店から出てそれぞれ家に帰った。

 

家に帰ってから、僕はそのお店をGoogleで検索した。(ふうん、こういうお店なんだ。いいなー。)と思った。感想らしい感想ではないことはわかっていながら、純粋にそれしか思わなかった。いいな、と。

彼の喫茶店の話は、言ってしまえばどうでもいいことだったのかもしれない。外見、メニュー、トイレの広さ、駐車場のあるなし、立地。それらの情報がほとんど伝えられなくて、食べログを見ることでそれらは全部わかってしまって。ただひたすら『とにかくなんか良いんだよ』と続けられる彼の言葉。

 

CMを観れば『深いコクが...』や『豊かな香りが...』などの言葉で情報がしっかり伝わり、口コミサイトを見れば『札幌市中央区...』、『駐車場あり』などの情報がちゃんと明記されていて。正確で、間違いない情報を受け取ることができる。

一方、目の前にいた友達から出てくる『なんか良いんだよ』『美味いんだよねえ』といった言葉は、正しくもないかもしれないし、主観まみれで客観的な情報も含まれていない。他の人からすれば、何一つ理解できないことがらなのかもしれない。

この2つの情報を比べれば、きっと前者の方が有用だ。便利だ。誰にでも通用するものだ。ただ、後者には「あたたかみ」みたいなものが含まれていると思う。友達だからというバイアスが邪魔をしているのかもしれないけれど。

 

『昔っぽい感じがなんか良いんだよ』という、至極ふわっとした言葉によって思い起こされてしまう、古臭い喫茶店の姿。きっとコインゲームの機械がそのままテーブルとして使われているんだろう。マンガはボロボロで、クリームソーダは甘すぎるんだろう。隣ではおじさんがいぶかしい顔でスポーツ新聞を読んでいるんだろうな。タバコは灰皿の上で白く長い灰になっていて。おばあちゃんたちが近所の人の悪口をガミガミ言い合っているかもしれない。

全部正確ではないし、まったく筋違いの妄想に終わってしまうにしても、彼の言葉で想像できたこのふわっとした想像の域を超えない喫茶店と、それに費やした時間。豊かで、あたたかいこの時間。これを生んでくれた彼の『なんか良い』は、きっと素晴らしい情報だったんだと思う。含みがあって想像させられて、どこか足りなくて欲しくなって。

足りないことをネガティブに捉えるのではなく、ポジティブに捉えることで、生活が満たされる。というか、満たすための余白をくれているのかもしれないな。自分で満たす、という。彼の足りない不便な言葉がきっかけになって。なんかわかんないけど、なんかいい時間でした。